いま日本中の地方都市や市町村で「地域起こし」という
キーワードが盛んに喧伝されています。
必死さのレベルに温度差はあります。
これから地域が生き残っていくためには
何らかの工夫や知恵が必要なのは確か。
そこで…
まず「地域起こし」の原点とは何だろうか、
と考えてみる。
すると…
特に諏訪という地域コミュニティでは、
お祭りを司る神社の存在が大きいのではないだろうか、と。
梅雨の昼下がり、上諏訪駅から
茶臼山の手長神社まで歩きました。
多忙な宮坂清宮司にお時間を頂戴し、
じっくりお話をお伺いしました。
(令和元年6月10日取材)
※google map 手長神社 Tenaga Shrine
御柱祭の「おもしろかった」原体験
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とても清々しい空気が流れていて、趣のある神社ですね。
ありがとうございます。
- さっそくインタビューを始めさせていただきます。記事の掲載メディアは、WEBマガジンというスタイルです。これまでも宮坂宮司はたくさんインタビューを受けていると思うのですが、今回は、ひとつの行事をピンポイントでお聞きするのではなく、その点と点を結んで線になるような取材ができれば、と考えています。
ほお。
- そもそも宮坂宮司は、なぜ宮司になられたんでしょうか。やはり、先祖代々、宮司の家系で世襲制ということなんでしょうか。そういう方が多いですよね。
父親も神主をしていましたが、いわゆる「社家」ではないんです。社家とは江戸時代から神主を世襲制で継承している家。明治維新以降、この世襲制が廃止になり、誰でも資格を取れば神主になれるようになりました。うちは明治25年に四代前の先祖が氏神様だった八劔神社の社掌を勤めたことが始まりです。
※社掌(しゃしょう)は現在の神主のこと。明治維新以降1945年まで、神社の格等によって神主の資格が細分化されていた。
- 世襲制でないとは言っても、父親の背中を見て、神主になろうと自然に思われたんですね。
それもありますが、きっかけというのを考えてみると…(少し遠い目になって)。
- ……(同じ方角を見てみる)
この地域には御柱(おんばしら)という、申と寅の年に行われるお祭りがあります。その年の春は、諏訪大社の御柱祭に地域の市町村の人々が関わります。秋になると、小さな宮、小宮というんですが、そこでも地域ごとに御柱が行われ、それが終わると、もっと小さな単位で御柱が建てられます。例えば何々姓の家なら、その本家分家が合同で祀っている祝神(いわいじん)の御柱のときには、氏族一同全員が集って、御柱を曳き建て、共同飲食して絆を深めて…ということを古くから諏訪地方ではやってきました。
- 諏訪では、道端の小さな道祖神にも4つの細い御柱が建っていますよね。ほかの地域では見られない光景です。
そうですね。独特な土地柄だと思います。私も小さい頃から御柱を曳いたり御柱に乗ったり、お祭りが楽しかったという思い出があります。お祭りの原点は、「おもしろい」から始まるのではないでしょうか。小学校6年生のときは、子供木遣りに入りまして、地区の爺さんに木遣りを教わりました。普段はおっかない爺さんが、顔を真赤にして、木遣りを鳴く。そこに大人の人間の魅力というか、そういうものを感じました。
- 地域の関わりが生きていて、子供心にお祭りを「おもしろい」と感じて、そういう原体験も神主の職を継ごうという動機になったんですね。
お稲荷さんへの興味から京都伏見稲荷大社へ
それから、高校生ぐらいになると、どうしてみんながこんなに御柱の祭りに熱中するのかと考えるようになりました。申と寅、6年置きで、あとの5年間は静かにしている。御柱のときだけ、人々の意識が爆発的に祭りに集中するのは、何故だろうか。
- さすがに高校生になると、「おもしろい」だけではなく、哲学的な問いが頭に浮かぶようになった。
それとともに、同族神である祝神に「お稲荷さん」が多いのは、何故だろう、という疑問ですね。それで、大学は神職の資格が取れる國學院大學に行ったんですが、卒業して初めて奉職したのが、全国の稲荷神社を統括する総本社、京都伏見稲荷大社でした。
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インスタ映えする真っ赤な鳥居のあるところですね。
そうです。日本全国で神社の数は8万社と言われていますが、その半分近くに当たる3万社ぐらいが稲荷社なんです。一番多いということは日本人に一番親しまれている、ということ。その総元締めが京都の伏見稲荷大社です。
- お稲荷さんといえば、お狐(きつね)さんですね。
いやいや、そもそも「稲荷」という漢字を見てください。
- 「稲」に荷物の「荷」…
そうでしょ。お百姓さんが秋に稲を刈る。その稲を担いでハゼ棒にかけますね。その担ぐ格好そのものが神様の姿。つまり、そもそも稲の豊作を護ってくれる神様なんですよ。ところが江戸時代以降は、商売繁盛の神様として爆発的な人気を集めるようになります。京都は都ですからね。お百姓さんだった人が商人となって、京都で商いを始めるようになり、それぞれの生業を護ってくれる神様として伏見稲荷が信仰されるようになった。農業から商業の神様になったというわけです。今でも、お参りに来るのは商売関係の人が多いですね。あと、朱色の千本鳥居に惹かれて訪れる外国人旅行客。
- 時代によって、お祈りする人が変わっていった、ということですね。
伏見稲荷の信仰の原点は、それでも、やはり稲です。伏見稲荷の祭事でも稲に対する祈りが顕著に見られます。生きるとは、食べること、お米を食べること。米の豊作が人々の幸せの原点であることに変わりはありません。
中世の儀式を現代に再現
- 京都伏見稲荷には何年奉職されたんですか。
11年間です。それから諏訪に戻ってきて、諏訪大社に16年間。手長神社で19年目になります。手長神社が本務社。それと兼務社というのですが、ほかに14の神社を担当しています。
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八劔神社の神主として、諏訪湖の結氷が御神渡りかどうかの判定もするんですよね。全国放送のテレビで取材されているのを拝見したことがあります。
室町時代1443年から記録が残っている儀式です。古文書を見るとですね、「みわたり」の表記に「神」という文字はなくて「御渡り」なんです。渡るに御をつけるだけで最大の敬語ですから。
- なるほど…。宮坂宮司は、古文書もよく読まれていると聞いています。
昔の資料を読んでいるとおもしろい発見があって興味が尽きません。例えば、諏訪大社も手長神社も梶の葉が紋になっていますが、梶は和紙の原料になるコウゾ属なんですね。梶の樹脂をはいで、漉いていったら和紙ができる。梶の和紙は正倉院にも保存されています。葉書きという言葉があるでしょ。まさに、葉っぱに書くことができたからそう名づけられたんです。それだけ、大切なものとして梶の葉は扱われてきました。そういえば吾妻鑑(あずまかがみ)に諏訪大神が穀(かぢ)の葉のついた水干を着て顕れたと書かれています。古くは「かぢ」を「穀」と書いていました。「梶」は近年の当て字ですね。
- 穀物の「穀」を「かぢ」と読むなんて知りませんでした。
「梶」を調べるだけでもおもしろいんです。手長神社の神紋は四本足の梶に丸がついています。高島藩主諏訪氏の紋と同じです。さらに梶を調べると、京都の冷泉家では、梶の葉を使って、七夕の日にお祭りをやります。乞巧奠(きっこうてん)というのですが、現在の七夕祭りの原型ですね。手長神社では、技芸の上達を祈るというその古い風習に因んで、いろいろな出し物を能舞台で発表するんですよ。人々は真剣に芸を奉納する。神様はそれを喜ばれる。
- 宮司はそういう伝統を現代に蘇らせようという試みが多いように感じます。普通の神社では、七夕祭りを乞巧奠(きっこうてん)なんて呼びません。本殿の階段の立札の半紙にも、日本古来の季節の呼び名が墨で書いてあります。
あれは二十四節気と七十二候といいまして、1年を単なる四季ではなくて15日間毎と5日毎に分けたものですね。日本人の持っている暦の感覚、自然に対するものの見方を知ってもらえればいいな、と始めました。何の変哲もないことなんですが、毎日、来る人は楽しみにしているようで…季節を敏感に感じ取っていただければ、それだけで、いいな、と。
- いまの時代、古いものを掘り起こしていくのは、面倒な作業ではないでしょうか。
先人たちのやっていたことを再現しているだけですから、別に、新しいことをやっているわけではありません。調べるのは少し大変ですが、それも楽しみなんですね。そうそう、昨年は、旧御射山(もとみさやま)神社というのが八島湿原のほうにありまして、そこのお祭りが毎年8月27日に行われるんですが、いくつかの行事を復活させましたよ。おもしろかったですね。
「諏方大明神縁起画詞」という昔の書物を紐解くと、鎌倉時代の旧御射山神社の記録が残っています。お祭りで大勢の武士が集まって武芸を競っていた、と。その中で、草鹿(くさじし)というのが、おもしろいと思いました。それで、鹿の姿を木とススキでつくって、それを的にして射るという行事を再現したんですよ。
- あの辺は、いまニッコウキスゲなどの植物が鹿に荒らされてしまうため、電気柵で囲ったりして大変だと聞いています。草鹿を退治するのなら、いいですね(笑)。
旧御射山神社で中世の祭りを再現なんて、氏子総代にとっても初めての体験。当初は、いやいや手伝ってくれていたんですが、次第にどんどん熱くなってしまって、草鹿の尻尾とか角とかも凝ってきて、最後は盛り上がって、楽しく出来ました。先人たちがやってきたことで、おもしろそうだな、ということをやる。先人たちの祭りや神様に寄せる思いに、少し近づき共感できるのではないか。それが原点ですね。なおかつ、みんながますます夢中に熱くなれば、やって良かったな、と思います。
みんなの熱意で、できる範囲で…
- いまは、地域の関わりが薄くなっていますから、昔のような祭りを再現するのは難しくなっているように感じます。
そうですね。大きな祭りを再現しようとすれば、それだけお金もかかりますから、大変です。前回の御柱が行われた平成28年に、八劔神社では、昔盛んだった人形飾りを再現したんです。きっかけは、古い記録に残っていた、ある写真を見て、そのエネルギーや想像力に圧倒されましてね。これが、そうです。
- おおっ。大きい! この滝もつくったんですか? 電信柱を越えていますね。
すごいでしょ。文覚上人那智の滝の荒行とか素盞嗚命のヤマタノオロチ退治とか、昔の伝説や神語りを再現するために、人形だけではなく、木で山をつくったり、藁で滝をつくったり、とにかくスケールが大きい。八劔神社近辺の4地区の氏子がそれぞれテーマを決めて、このような飾りものをつくって競っていたというのですから、半端じゃありません。御柱の曳き建てと共に、村のみんなが総出でつくったんですよ。
- このスサノオの人形もすごく大きいんですね。人間との比較でわかります。
戦後、大変だからと一時途絶えていたんですが、昭和55年から3度の御柱祭に、人形は穂高神社から借りてきて、再現されました。その後また途絶えたまま、平成28年の御柱の年に、代々の氏子総代に集まってもらって、人形飾りをまたやりたい、と相談したら、御柱祭だけでも大変なのに、さらにお金のかかることは無理、と当初は、みんなから反対されました。それじゃ、お金をかけないで、知恵を絞って、みんなの熱意で出来る範囲で、やりましょう、ということに…。人形飾りのテーマは、歌舞伎でも有名な八重垣姫のお話。諏訪にもゆかりの深い題材です。これが、そのときの写真です。
- ほのぼのとした雰囲気で、味わいがあって素敵ですね。
ふるさとの良さを子供たちに伝えたい
人形飾りに最初は躊躇していた人たちも、だんだんと夢中になって、カンカンに熱くなって、いろいろと工夫しながら、おもしろく、楽しくやることが出来ました。
- 何はともあれ「おもしろく」。そこが、お祭りの原点なんですね。もっとお話を聞いていたいのですが、最後に、ちょっとセオリー通りの質問で恐縮ですが、課題とか展望とか、いわゆる「これから」について、お聞きしたいのですが…
どこでも騒がれていますが、やっぱり、少子化の問題がありますね。だって、御柱を引っ張っていく人がいなくなったらエライことです。御柱に参加してくれる小学生は、毎回、確実に少なくなっています。小学生の頃から、お祭りを通して、「諏訪って、すごいぞ、おもしろいぞ」という感覚を持ってもらう。お祭りに参加したご褒美にお饅頭をもらえば、なお嬉しい記憶になる(笑)。
地域の高校生とも、いろいろと交流があります。茶道部の学生が手長神社の能舞台を使ってお茶会を催したり、お守りをオリジナルでつくってくれたり…。
でも、ほとんどの子供たちが中学高校と進学するうちに、一旦はみんな神社やお祭りから離れると思います。そして社会人となり、どこかのタイミングでふるさとへ戻ってきた時、また、子供のときを思い出して、自分の子供へと「おもしろさ」を継承してもらえればいいな、と思います。自分らも、そうでしたからね。
- ふるさとを好きな気持ちが育まれていれば、都会へ出た子供たちも戻ってきますよね。
お祭りはもちろんのこと、子供相撲とか、八剱太鼓とか、ことあるごとに子供たちに呼びかけて、子供たちが集まる場を提供する。それも神社の役割のひとつかな、と思っています。先日も、地元で育った子供が遠方から帰ってきて、神社で結婚式をやらせてくださいって…。やはり、嬉しいですね。神社って、もともとオープンな場です。セキュリティの観点から言えば、ありえないでしょう? 人を拒まないのが、神社なんです。
- そういう懐の広さ、深さが、今の時代、とっても貴重ですね。
本日は、お忙しい中、ほんとうに、ありがとうございました。
■インタビューを終えて
宮坂宮司のお話は次から次へと尽きることなく溢れ出し、その知識の圧倒的な量に驚かされました。
しかも、昔のことを探って、それを知識として話すだけではなく、実際に、いまの世の中にカタチとして出現させてしまう。地域の物知りおじさんであり、イベントプロデューサーです。礼儀の良くない子供たちを大声で叱ることも度々あるようで、うるさい頑固親父という悪役もあえて引き受けていらっしゃいます。
宮坂宮司の行動力の根っこにあるものは、「おもしろい」と感じる好奇心。本人が心底から「おもしろい」と感じてるから、自然と周囲の人々を巻き込んでいくのでしょう。
昔は良かったと懐かしむだけでは、何も変わりません。逆に、新しければ何でもOKか、それでいいのか、良い文化も壊れてしまうのではないか、と危惧します。
新しいことをやろうと肩肘張らず、足元の歴史を見つめて出来るものから始めましょう、という宮坂宮司の自然体の姿勢に、これからの「地域おこし」の貴重なヒントがあるように感じました。
(記者:菊池 好純 監修:杜水きよめ)